辺りは闇・・・・・・夜の闇。
その中を何度もつまづきそうになりながら走る一人の少女がいた。
歳は十を過ぎた頃だろうか。
夜を連想させる黒髪が月明かりを受けて輝いている。
幼さないが整った顔立ちをしており、将来は美しい女性に成長することを予感させた。
しかし、少女の白い服は土にまみれ、それが彼女をひどくみすぼらしく見せていた。
また、露出した肌のところどころに傷があり、赤い線を引いている。
暗闇ゆえ表情は判らないが、その姿からは恐怖と悲愴、そして決意を感じることができる。
少女は逃れようとしていた。
自分を捕らえようとする大きな力から。
その力は夜の闇となり、彼女の行く道を閉ざしていているようだった。
それでも少女は走り続けた。
この闇は終わると信じて。
この先に光はあると信じて。
レナスという村がある。
大国であるミスタリア王国の東に位置する辺境の村だ。
「魔獣の森」と「飛竜山脈」という魔境に囲まれているためか外界との繋がりは皆無である。
三百人余りの村人達は狩猟や農耕で生計を立てながら、助け合って生きていた。
そのため、村人のほとんどは村から出ることなく一生を終える。
外の世界に憧れて村を出るものもいるが、再び戻ってくることはない。
そんな小さな何も無い村である。
その村が襲撃を受けていた。
村人達が寝静まってからの襲撃。
家に火を放たれ、慌てて外に飛び出した彼らは次々に惨殺された。
女子供、果ては赤子に至るまで・・・・・・そこに一切の慈悲はなかった。
村人たちは見た。自分たちを殺し、血に染まる殺戮者の姿を。
立派な装飾の施された真紅の鎧。その右胸には翼竜の紋章があしらわれていた。
彼らはミスタリア国の騎士だった。
本来、民を守るべき立場にある者だ。
「なぜだ!?」
天を焦がす炎の中、ある村人が愛する妻の亡骸を抱いて叫んだ。
しかし、その問いに答えることなく騎士は男の胸に剣を突き立てた。
少女のところにも火の手は迫っていた。
就寝していた彼女は外の騒音で目を覚ます。
隣で寝ていたはずの父親の姿を探すが、見当たらなかった。
嫌な胸騒ぎがして、寝間着姿のまま外に出る。
強い風が少女のワンピースを揺らした。
―――空気が熱い。
周囲を見回す。全てが燃えていた。
父親と植えて、収穫を楽しみにしていたリンゴの木も、村の子供達と一緒に麻を編んで作ったブランコも、木の枝に取り付けた鳥小屋も……そして、人も。
少女は絶望しながらも、必死に父親を探す。
少女の父親は家から少し外れたところに倒れていた。
その周囲には複数の村人と騎士の死体が転がっている。
「お父さん!!」
少女は駆け寄って、父親の体を抱き起こそうとした。
ぬらり・・・・・・。
少女の手が赤く染まる。
少女は思わず悲鳴を上げた。
父親の命の火が急速に消えているのが分かった。
「・・・・・・逃げろ・・・・・・」
父親が口を開いた。
開いた口から新しい血が吹き出したが、それでも言葉を止めない。
「この村はもう終わりだ。なぜこんなことに・・・・・・」
「お父さん!!」
「お前は生き延びてくれ」
「いやだよ!! 一人にしないで!! お父さんがいなくなるなら、私も・・・・・・!!」
父親は少女の自慢だった。正義感が強く村のリーダー的存在だった。博識で少女の質問には何でも答えてくれた。
そして、何より自分を心から愛してくれていた。
離れたくない。
少女はそう強く願っていた。
「リア!!」
死を前にしているとは思えない程の強い口調に、リアと呼ばれた少女は言葉を止めた。
「お父さんはお前に生きていて欲しい。笑顔でいて欲しい。お父さんはお前の笑った顔が大好きなんだ」
「・・・・・・」
「心配しなくても大丈夫だよ。お前は強い。それに・・・・・・」
父親は静かに目を閉じて、小さな声だがはっきりと言った。
「一人にしないから」
最後の言葉が何を意味しているのか、リアには理解できなかった。
しかし、これ以上、大好きな父を困らせてはいけないことは理解できた。
「わかった」
リアは涙を拭ってそう言うと、父親が大好きだと言ってくれた笑顔を見せた。
それを、父親も笑顔で返す。
「村の入り口には騎士たちがいる。だから、そこから真っ直ぐ南に向かって逃げるんだ。危険だがうまく行けば夜のうちに森を抜けられる」
父親はそう言うと、近くの森を指差す。
そして、再びリアに笑顔を向ける。
「愛してるよ。リア」
「私もだよ。お父さん」
リアは父親から目を離し、真っ暗な森の入り口を見据える。
その目はある種の決意に満ちていた。
「いってきます」
そう告げるとリアは一度も振り返ることなく森に向かって駆け出した。
どのくらい走っただろう。
毎日、野山を駆け回っているリアもこれほどまでに長い距離を走ったことはなかった。
時折、酸っぱいものがこみ上げてくる。
だが、父親との最後の約束を守るために、リアは走るのを止めなかった。
しかし、その逃走劇は唐突に終わりを迎える。
茂みから飛び出した男に髪を掴まれ、リアは転倒してしまったのだ。
「大人しく粛清されればいいものを。手間をかけさせやがって」
茂みから出てきた男は左手で髪を掴んだままそうぼやくと、リアを仰向けにして馬乗りになった。
身軽なリアの足に重い鎧を着けた騎士が追いつけるわけはない。
おそらく村人を逃がさないよう村の外れに配置された斥候なのだろう。
その証拠に男の装備は、黒い皮鎧に黒皮のブーツと機動性を重視したものになっていた。
男はにやにやと笑いながら腰に差した短剣に手をかける。
しかし、同時にリアも動いていた。
男の腰ベルトにぶら下がっている水袋を、思い切り男の左腕に叩きつけたのだ。
水圧で栓が開き、中の水が吹き出す。
次いでリアは男の腕に自分の手を重ね、然るべき言葉を口にした。
直後、水に濡れた男の腕が凍りつく。
凍りついた腕は凍傷を起こし、男に激痛を与えた。
予想外の反撃に男は声にならない声を上げる。
その隙を突いてリアは男を突き飛ばし、拘束から逃れた。
「っ!! この魔女がああ!!」
リアが使ったのは魔法と呼ばれるものだった。
人の持つ魔力という特殊な力を具現化し、奇跡を起こす。
誰でもが扱える訳ではない特別な力である。
魔法は確かな効果を現し、リアは危機を脱したが、男の戦意を喪失させることはできなかった。
むしろ、怒りを煽ったに過ぎなかった。
男はわめき散らしながら立ち上がると、短剣を逆手に構えて慎重に間合いを詰めていく。
相手が魔法を使うことが判ったため、警戒したのだろう。
男は充分に戦闘の訓練を積んだ熟練の騎士なのだ。先程のように不意を撃たれなければリアのような年端も行かない小娘に遅れをとることはない。
凍傷した腕の痛みを堪えながら、鋭い視線は確実にリアを捉えていた。
一方のリアも注意深く相手を見据え、この状況から脱する機会を伺っていた。
しかし、この時二人は失念していた。
この森が「魔獣の森」と言われていることを。
森の主がこの騒動を見逃すはずがないということを。
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