1.失踪

「相良くん、ちょっといいかな」

険しい表情をした上司に呼ばれて、ひとりの男が席を立つ。
年の頃は二十代後半。中肉中背で、顔は中より少し上といったところか。
若干下がった目尻のせいか性格は温和なように見える。
突然、呼ばれて緊張しているのか少し動きがぎこちなかった。

「なんでしょう? 橋口部長」

メモを片手に尋ねる男―――相良湊(さがらみなと)を橋口は見上げる。

「さっき客先から電話があって、先日リリースした分のシステムの仕様をこんな風に変更してくれって。もちろん断ることもできるけど、今後も付き合いが長くなりそうな顧客じゃない?」

橋口はそう言うと1枚の用紙を相良に手渡す。
そこには仕様の変更箇所がお世辞にも上手いとは言えない文字で手書きされていいた。

「こんな指示の出し方も辞めて欲しいんだけどね」

相良は苦笑いする橋口に同意を示す笑みを返して、書類に目を通す。

「どう? できそう?」

「そうですね。大した修正じゃないので明日の午前中までにはできそうです」

「そう、助かるよ。じゃあ、先方には明後日のリリースで伝えておくよ」

「分かりました。よろしくお願いします」

相良は一礼して席に戻る。
席につき、再び書類を確認しながら、一時間前に入れてすっかり冷めてしまったコーヒーを啜っていると隣席の女性が声を掛けてきた。

「また仕事増えるんですか?」

同僚の女性は椅子から身を乗り出すようにして相良の持つ書類を覗き込んでくる。

「ああ。顧客からの要望らしい」

「またですか? もう断っちゃえばいいのに」

女は頬を膨らませる。
相良よりも随分と若く見えるこの小柄な女性は、川谷静香(かわたにしずか)と言う。
整った顔立ちで、笑顔が可愛らしい彼女は男性職員からの人気が高い。
相良自身もそんな川谷に好意を持つ輩のひとりだ。
そのため、無邪気に体を寄せてくる彼女に対して緊張を覚えるのも無理なからぬことだった。

「相良さん?」

「あ、ああ、そうだね。まったくだよ」

動揺していることを悟られぬよう曖昧な返事をして、川谷から視線を逸らす。
川谷はそんな相良を不思議そうに見つめていたが、そのうちひとつ小首を傾げて自分の仕事に戻っていった。
 
(……なんだかんだで充実してるよな)

気持ちを落ち着かせるように仕事を再開した相良はふいにそう思った。
仕事では、それなりに大きなプロジェクトのリーダを任されて、上司からは頼りにされているし、評価もされている。
私生活でも、恋人はいないが想いを寄せる川谷との関係は良好だ。
今週末には、二人だけでドライブに行く約束もしている。
相良はそんな充実感を味わうように目を閉じ、ゆっくり息を吸い込む。

(よし、やるか)

決意とともに息を吐き出すと、気持ちを切り替えて目の前の仕事を片付けにかかった。

翌日もいつもと似たような日常になるはずだった。
しかし、相良は出社すると同時に激しい胸騒ぎを覚えることになる。

(川谷……まだ来ていない?)

普段であれば相良よりも早い時間に席に着いているはずの川谷の姿が見当たらない。
初めは交通機関の遅れかなどと考えていた相良だったが、就業時間が近づくにつれて、不安が大きくなってきた。
念のためにとSNSでメッセージを送ったが、既読すらつかない。
その後、電話してみるもコールはするが繋がる気配はなかった。
そして、遂に始業時間を過ぎても彼女は姿を見せなかった。
仕方なく相良は橋口にその旨を報告する。

「川谷が?」

橋口はそう言うと、手早くシステムに登録されている社員の出社記録を確認する。

「確かに来ていないようだね。連絡はとってみた?」

「はい。SNSも電話も反応がありませんでした」

ふむと橋口は口元に手を当てて考える素振りを見せる。
そのしばしの沈黙が相良の不安をよりいっそう掻き立てた。

「……昼過ぎても連絡がつかなかったら、自宅に確認に行こうか。忙しいとは思うがは相良くんも一緒に来てくれ」

「分かりました」

相良は頭をさげて、席に戻る。
ちらと部屋の入り口に目をやるが、彼女が入ってくる気配ない。
川谷は社内では真面目で通っており、無断で会社を休むような社員ではない。
どうしても何かあったのではないか、という考えが先に立つ。
相良は陰鬱な気持ちを抱えながら、昨日依頼された修正に手をつける。
今日の午前中に片付けられる程度の作業だったが、今の彼にはとても終わらせられる気がしなかった。

昼を過ぎた。
相良はなんとか作業を終わらせたが、相変わらず川谷からの反応はない。
周囲も薄々そのことに気付いているようで、口には出さないが、そわそわした空気が社内に漂っていた。
16時を過ぎたところで、相良は橋口に呼び出された。

「30分後に出ようか。準備してくれ」

そう告げた橋口の表情はいつになく険しかった。

川谷の自宅は会社から30分ほど離れた閑静な住宅街にあった。
ベッドタウンという言葉がぴったり合うこの場所には、大小様々なアパートやマンションが整然と並んでいる。
まだ時間が早いこともあってか駅前でも人通りは少ないが、もう少しすれば帰宅してくる人々で賑わうだろう。
季節はまだ秋に差し掛かったばかりだが、日が落ちるのが早い。
現に早い時間の割にどこか薄暗く感じられる。
辺りには鈴を鳴らすような虫の音が微かに響いていた。
そんな中、ふたりの男性があるマンションの前で足を止めていた。

「ここですね。川谷の自宅は……部屋は307号室です」

相良は橋口にそう声をかける。
彼自身、川谷の自宅を訪れたことはないため、電車を降りてからはスマホの地図アプリ頼りだった。
橋口は頷くと、マンションに足を踏み入れる。
相良も遅れまいと後に続いた。
オートロック付きのマンションではなかったため、部屋の前にはすんなりとたどり着くことができた。
相良がドアに軽く耳を近づけて、中の様子を伺う。

「何も……聞こえませんね。いないんでしょうか?」

橋口は相良の質問に答えず、インターフォンに手を伸ばした。
一瞬、躊躇したように手を止めた後、ボタンに触れる。
甲高い呼び出し音が、1回、2回……と鳴り響き、やがて止まった。
その後しばらく待ってみたが、中からの反応はない。
次いで相良がドアを叩きながら川谷を呼んでみたが、状況は変わらなかった。

「やっぱり留守みたいですね」

「そうだな。会社に戻ってご家族に連絡を取ってみるか」

そうですね、と答えながら何とはなしにドアノブを捻った相良が動きを止めた。

「どうした?……まさか」

怪訝そうに相良の手元を覗いた橋口だったが、すぐに言葉を止める。

「開いてます。鍵がかかってません」

緊張で声が上ずる。
強盗、暴行、殺人……嫌な用語が相良の頭に浮かぶ。

「落ち着くんだ。相良くん」

相良の心中を察したのか、橋口は冷静に声をかける。
しかし、そんな彼の額にはうっすらと汗が浮かんでいた。

「急を要する事態かもしれない。あまり良いとは言えないが少し中の様子を見てみよう」

「しかし……」

相良は反論しかけて、後の言葉を飲み込んだ。
橋口の言うことには一理ある。
もし病気などで倒れているのであれば、早期発見することで命を救えるかもしれない。

しかし、すでに息絶えていたら?
ーーーそれも無惨な姿で。

そう考えるとどうしても部屋に入ることに拒否反応を示してしまう。

(でも、まだそうと決まったわけじゃない。ただ鍵を閉め忘れただけの可能性もあるし……それにここで確認しなかったら後悔することになるかもしれない)

相良は覚悟を決めて、橋口に向かって頷く。
そして、ドアノブを回すと、ゆっくりと手前に引いた。

ワンルームの間取りだったため、玄関から部屋全体を見渡すことができた。
さらにカーテンから漏れる西日のおかげで、室内は十分に明るい。
そのため、ドアを開け放てば、中に入らずとも部屋の様子はある程度確認できた。
そしてーーー相良はひとまず胸を撫で下ろす。
人が倒れていたり、壁に血液が付着していたり、切り落とされた身体の一部が転がっているといった様子はなかったからだ。
また、争ったような痕跡もなく、部屋は川谷らしく綺麗に整頓されていた。
しかし、肝心の川谷の姿は見えない。
ベットを見ても膨らみがなく人が入っている気配はない。
再び名前も呼んでみるも返答はなかった。

「やっぱりいないようですが、特におかしなところもないようですね」

少しだけ安心したような声を上げる相良だったが、橋口は険しい表情を崩さない。

「見えている範囲ではね……クローゼットや風呂場はどうだろう?」

橋口の言葉に相良はぎょっとしたように目を見開いた。
嫌な光景が再び頭を過ぎる。

「まあ、異臭はしないから大丈夫だとは思うが」

確かに室内はラベンダーの芳香剤の香りで満たされており、そこに妙な臭いは紛れていない。
相良は頷くと、多少の後ろめさを感じながら、靴を脱ぎ部屋に足を踏み入れた。
そして、クローゼットの前に立って鼻を近づけてみる。

(大丈夫そうだな)

衣服特有の匂いしかしないことを確認して、少しだけ開けて中を覗く。
中には見慣れたスーツや見慣れない私服が整然とハンガーに吊るされていた。

(川谷、こういうの着るんだ)

場にそぐわない考えを頭に描いてしまったことを恥じるように首を横に振り、クローゼットの中を隅々まで見渡す。
下には白いカラーボックスと小さな段ボールが置かれていた。
流石にカラーボックスを開けるのは気が引けたため、そのままにしておく。
段ボールの方はフタが開いており、中身が見えていた。

「本?」

思わず呟き、しゃがみ込む。
箱の中には似たような装丁の本がびっしりと詰まっていた。

ーーー神の楽園

タイトルから宗教絡みの本かと思ったが、表紙の少女漫画のようなイラストを見て考えを改める。
どこか興味を覚えて一冊手に取ってめくってみると、どうやら小説のようだった。
所々に見られる挿絵から、東洋のファンタジー物と思われる。
一通り目を通したところで、相良は以前、川谷が子供の頃から読んでいる小説があると話していたことを思い出した。
確か、異世界の荒れ果てた国を統一するという話ではなかったか。
大好きな登場人物がいるとも言っていた。
名前は確か、劉……。

「何かあったのかい?」

突然、橋口に背後から声をかけられ、心臓が跳ね上がる。

「い、いえ、特に何も」

橋口は相良の持つ本を一瞥して怪訝な表情を浮かべたが、それについては特に触れず話を進める。

「チラと覗いただけだが、風呂場の方も特に問題はなかったな」

「そうですか」

「ご家族には私の方から連絡しておこう。相良くんは特に作業がないならこのまま上がりなさい」

「それでは、そうさせて頂きます」

ふたりはそれだけの会話を交わすと、玄関の方に向かう。
と、相良は枕元に、例の小説が一冊だけ放置されていることに気がついた。
寝る前にでも読んでいたのだろうか。
特に気に留めることもなく、一瞥して立ち去ろうとした時、相良の目に異質な光景が映った。
本からうっすらと黒い煙のようなものが立ち昇っているのだ。
煙は本から離れるほどにか細くなりながらもたなびくようにして窓の方に伸びている。
目の錯覚かと思い、二、三度瞬きをして、凝視したがやはり謎の煙が消えることはなかった。

「橋口部長」

相良に呼ばれて戻ってきた橋口に、相良は問う。

「あの黒い煙はなんでしょう?」

「煙? どこ?」

相良の指差す方を身を乗り出すようにして見つめた橋口だったが、やがて姿勢を戻す。

「煙なんて見えないよ」

どうやら橋口には見えていないようだった。

「そんな……確かに今も」

相良は思い切って窓に近づき、カーテンを開ける。
煙は窓の隙間から外に漏れ出しているように見えた。
相良は続けて窓も開け放つ。
しかし、窓から出たところで風に流されてしまったのか煙の尾は途切れており、そこからの行く先を辿ることはできなかった。

「大丈夫か? 相良くん」

部下の奇妙な行動に少なからず動揺している様子の橋口に声をかけられ、相良ははっと我に返る。
もう一度、本を見ると、もう例の煙は見当たらなかった。
開いた窓から吹き込んだ風に散らされたのか、それともそもそも自分の思い違いか。
釈然としなかったが橋口に見えなかった以上、自分がおかしくなったとしか思えない。

「いえ、勘違いだったようです。すいません」

川谷がいなくなって動揺しているのだ、自分は。
相良はそう自分に言い聞かせて、橋口に謝罪する。

「いや、いいんだ。暗くなってきたしね。それに、疲れてるんだろう」

気遣うような視線を送りながら、橋口は相良に部屋を出るよう促す。
相良はそれに従いながら、最後にちらりと本に視線をやった。

(やっぱり、勘違いか)

何の異常も見られないことを確認すると、部屋を出る。
玄関のドアを閉めながら、川谷に関する情報が何も手に入らなかったことに肩を落とす。

「どこ行ったんだよ……」

相良は前を歩く上司に聞こえないほどの声で小さく呟いた。
その問いに答えられる者が近くにいないことを分かっていながら。
それでも問わずにはいられなかった。

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