2.邂逅

川谷の自宅を訪問してから3日が過ぎた。
橋口はその日のうちに家族に連絡してくれていた。
その後、家族からも川谷に連絡を取ったが、繋がらなかったため警察に捜索願いを出したようだ。
現在、川谷の自宅周辺は警官や刑事とみられる人間が捜査のためにうろついている。
橋口と相良も川谷に近しい人間であること、失踪当日自宅を訪問したことなどの理由で事情聴取を受けた。
そこで勝手に部屋に入ったことがばれてしまい、そのことについては厳しく追求されたが、後の捜査で事件との関係性はないと思われたのか、それ以降は何の連絡もない。
そのため、相良はいつもの仕事に追われる日常に戻っていた。
川谷がいないことを除いては。

相良が昼休みに検索サイトを開くと、「美人OL謎の失踪」という文面が目に飛び込んできた。
そのページには川谷の失踪についての記事が書き連ねてある。
下方にあるコメント欄には、どこか心配するような、面白がるような、批判するような自己満足の言葉が並ぶ。
また、リンクから移動した某動画サイトでは、どこぞのコメンテータや専門家たちがあれやこれやと何の解決にもならない議論を交わしていた。
相良は不快感を覚えて、開いたサイトを乱暴に閉じていく。
時計に目をやると、そろそろ昼休みも終わる時間だった。
明日は土曜日。
川谷とドライブに行く約束をしていた日だ。

(まさかそれが嫌で逃げ出したってことは……まあ、ないだろうな)

ドライブに誘った時の川谷の笑顔を思い出して、即座に否定する。
心底喜んでいる様子だった。
相良の中で会いたいという気持ちが強くなる。

(明日の朝までに川谷から連絡がなかったら……)

机の脇に置いている卓上カレンダーを眺めながら、彼はある決意を固めていた。
そのうち始業のチャイムが鳴り、相良は仕事に取り掛かる。
その頭の片隅で相良は週末の計画を立てていた。

そして、土曜日。
川谷のマンション前で佇む相良の姿があった。
時間は昼を回った頃だ。
秋と呼ばれる季節にも関わらず日中の気温は高く、何もせずに立っているだけでも汗が滲んでくる。
そんな相良の目の前を警官や報道関係者と思しき人間が忙しなく動き回っていた。
至る所で指示を飛ばす声やそれを受ける声が聞こえてくる。
警官が三人ほど慌てたように階段を上がっていくのも見えた。
騒然ーーーそんな言葉が相良の頭に浮かんだ。

(何かあったのか?)

人と人との隙間からマンション内の様子を伺おうとするが、特に何も見つけることはできない。
言いようのない不安と期待が相良の中で交錯した。
そのうちマンションの前に陣取っていた女性記者がカメラに向かって興奮した様子で話し始めた。

「先ほど失踪した女性宅に調査に入った警察官が……死亡したとの情報が入りました! しかし、朝の時点では部屋には誰もおらず……」

ーーー死亡?

身近では聞き慣れない言葉を耳にして相良は面食らう。
しかも、死亡したのは当の川谷ではなく部屋を調べていた警官だという。
その事実に相良のみならず誰もが混乱している様子だった。
更に誰の理解も追いつかぬうちに、次の出来事が起きる。
銃声と思しき音が一回だけ鳴り響き、その後、マンションの階段を転がるようにして、ひとりの警官が降りてきたのだ。
ひどく取り乱しており、まともに立つことさえできずにいる。
そして、その顔には無数の赤い斑点が付着していた。
そんな彼にひとりの警官が駆け寄り、引きずるようにしてマンションから連れ出す。

「……高橋さんが……まだ中で……助けて」

高橋とはおそらく同僚の名前であろう。
そう言って指さした先ーーー部屋の窓から人の姿が見えた。

「高橋さん!」

逃げてきた警官が叫ぶ。
その声が届いたのか高橋と呼ばれた警官はにっこりと微笑むと、自分の頭に拳銃を当ててためらうことなく引き金を引いた。
パンという音とともに警官の頭が弾ける。
先ほどの女性記者が金切声を上げてうずくまった。
指さした警官は目と口を大きく開いて声にならない声を絞り出している。

「中で何が起こっているんだ!?」

下で待機していた警官が心神喪失している様子の同僚の肩を掴んで問いただす。

「無線で話したとおり……化け物がいて……」

「そんな訳あるか! 本当のことを言え!」

激しく否定する警官の言葉を無視して、彼は話を続ける。

「もともと部屋を調べてた検察官……名前なんだったかな……はじめから頭が無くて……一緒に部屋に入った小宮くんは、なぜかな? 台所にあった包丁で自分の腹を裂いて、中身を出してしまって、高橋さんは銃を撃って……多分あいつに当たったけど……動けなくなって……オレに逃げろって」

凄惨な出来事を語る彼は初めこそまともだったが、話が進むにつれ何が面白いのか狂ったように笑い始めた。
その様子にその場にいた誰もが恐怖する。
もちろん相良も例外ではない。
直感的に早くここから逃げなければならないことを理解する。
震える手足をかろうじて動かしながら、なんとか一歩だけ後ずさった相良の目に、血塗れの窓から漏れる黒い煙が映った。
しかも、今回は以前よりもはっきりと見える。

(なんだ?)

黒い煙は弓なりに西の方角ーーー郊外の方に向かって伸びていた。

ーーーあれを追ってはいけない

相良の直感がそう告げる。
追えばとてつもない災厄に見舞われることだろう。
先ほどのおかしくなってしまった警官のような目に……いや、彼が語ったような人たちのような目に遭うかもしれない。
しかし、一方であれこそが川谷の行方に繫がる唯一の道だと確信していた。
相良はしばらくの間、空を見上げて立ち尽くす。
黒い煙は依然として宙を漂っているが、相良以外の人間には見えてはいないようだ。
周囲の者たちは慌ただしく、それぞれの対応に追われている。
そうこうしているうちに救急車がけたたましいサイレンの音とともに到着した。
それと入れ替わるようにして相良はゆっくりとその場から離れた。
辿々しい足取りで。時折、空を仰ぎ見ながら。

煙を追うのは、簡単なようで予想以上に困難な作業だった。
煙は目的地に向かってまっすぐに空を駆けているが、対する相良は家屋やマンションなどの障害物を避けながら進む必要があるからだ。
それでも、なんとか煙の痕跡を見逃すことなく、終着地と思しき場所に辿り着くことができた。
そこは廃工場だった。
トタンで出来た壁は錆だらけで茶色になっており、その上にはツタがびっしりと張り付いている。
周囲には雑草が相良の腰のあたりまで背を伸ばしていた。
かなり長い期間、放置されているようだ。
車通りの多い国道から少し離れただけの場所にも関わらず、このような寂れた建物があるのは驚きだった。

(ここで間違いないな……)

相良は少し屈んで雑草に身を隠しながら、遠巻きに工場を眺める。
その視線の先には割れた窓から工場の内部に入り込む例の煙があった。
相良は目を凝らして中を確認しようとするが、昼間とはいえ工場内は薄暗くここからでは何も見えない。
仕方がないため、もう少し近づこうと一歩足を踏み出した時……。

「やめておいた方がいいわよ」

突然、何者かに背後から声をかけられた。
飛び上がらんばかりに驚き、慌てて後ろを振り返る。
そこには、二十代半ばくらいの女が立っていた。
女性としては長身で、モデルのようにすらりとした体つきだ。
高級そうな黒のパンツスーツを着こなしており、腰まである美しい黒髪が風に揺れていた。
そんな美女が微かな笑みを浮かべながら、相良に近づいて来る。
相良は不覚にもしばし女に見惚れていたが、我に帰ると一歩後ずさった。

「あら、そんなに警戒しなくてもいいのに」

女は敵意がないことを表すように、口元に手を当ててクスクスと笑う。

「どちらかというと力になりたいと思っているのよ?」

何の話をしているのか分からず戸惑う相良に女は話を続ける。

「あそこにいるお嬢さんを助けたいのでしょう?」

その言葉を聞いて相良は目を大きく見開く。
そして、今度は逆に女の方に向かって一歩詰め寄った。

「川谷を知っているんですか!? あそこにいるんですか?」

「落ち着いて。そんなに大きな声出したら中にいるやつらに気づかれるかもしれないわよ?」

相良はハッとして口をつぐむ。

ーーー中にいるやつら

それは工場内に川谷以外の何者かが潜んでいることを意味した。
そして、それがおそろく今回の異常な事件の元凶なのだろう。
事態を察して黙りこくった相良を見て、女は満足そうに頷くと、背中を向けて声を掛けてきた。

「ついてきて」

「この辺でいいかしら」

相良は廃工場から歩いて5分ほどの場所にある空き地に連れてこられた。
周囲に人気はなく、しんと静まりかえっている。
女はあたりを軽く見回すと、ポケットから煙草を取り出して火をつけた。

「さて」

煙とともに言葉を吐き出して、相良を見る。

「さっきの質問に答える前に、私からひとついいかしら?」

女はそう言うと、相良の返事を待たずに空を指さし、言葉を続ける。

「貴方、あれが見えているの?」

女の指の先には、例の黒い煙が漂っている。

「見えます」

全ての答えを知っていそうなこの女性に、隠し立てする意味はないと考え、相良はきっぱりと回答する。

「そう。そうよね」

「あれは、いったい何なのですか?」

女は、しばらく何かを思案するように携帯灰皿に煙草の灰を落としていたが、やがてゆっくりと口を開いた。

「あれは神子の力の残滓よ」

「は?」

「神子とは新たな神の創造物ーーー出来損ないの化け物」

「ちょっと……」

「今回のは、私たちが『悪意』と呼んでいる化け物よ。希望や夢といった心を喰らって人を堕落させるいやらしい奴で、力は大して強くはないんだけど、生き物の思考を操ったり、体を霧状に変化させたりといった厄介な能力を持ってて……」

「ちょっと待ってください!」

相良から強い制止の言葉を受けて、女は黙る。
一方、相良は話を止めてはみたものの次の言葉を見つけられずにいた。
しばらくの間、気まずい沈黙がふたりの間に流れたが、不意に女がそれを破る。

「信じられない?」

ーーー信じられない!

相良がそう声を上げようとした時、これまでの出来事が思い起こされた。
突然の川谷の失踪、現場にいた警官の話、笑顔で自ら命を絶った警官の姿……そして、今も空に見える得体の知れぬ黒い煙。
日常からかけ離れたことが起こっているこの現状を鑑みると、女の話を頭から否定できない自分がいた。

「否定もできないってところかしら」

女が相良の心のうちを見透かしたかのような声をかけてきた。
対して相良は渋々といった感じで頷く。

「まあ、すぐには信じられないわよね。狭い世界で生きてきたあなたたちには」

どこか皮肉めいた言い回しに相良は軽い苛立ちを覚えたが、川谷に繋がる情報を持つ人間と事を構えるのは得策ではないと考え、ぐっと堪える。

「……それで川谷はその化け物に連れ去られてあの工場にいるってことですか?」

「そう」

女は勿体ぶることなくさらりと言ってのける。

「連れ去られたとは限らないけれど……」

「どういうことですか?」

女のぽつりと漏らした呟きに、相良は噛み付くように反応した。

「いえ、そういう可能性もあるかなと思って。まあ、気にしないで」

いや気になるだろと、思いながらこれ以上は聞いても答えてくれそうな彼女を相良は睨みつける。
そんな相良の視線を気に留めた様子もなく、女は胸ポケットから名刺を取り出すと、相良に差し出す。
少し警戒しながらも相良は素直に受け取り、内容に目を通した。

「花城探偵事務所……花城……?」

「槐(えんじゅ)よ」

まあ、読めないわよねと花城は呟くと、困ったように細い眉が少し下がる。
漢字を読んでもらえなかったことに対して、予想以上にがっかりした様子の彼女の姿に相良は戸惑う。
しかし、それも一瞬のことで、すぐに元の勝気な表情に戻っていた。

「さてと、それじゃあ、本題に入ろうかしら」

花城はそう言うと、煙草の吸い殻を片付けて姿勢を正す。

「私はひと月ほど前からあの工場に巣食っている『悪意』の動きを監視しているの。そしてつい先日あいつはひとりの女性を工場に連れてきた。おそらく、あなたの探している川谷という娘よ。彼女は……」

「川谷は無事なんですか!?」

「無事よ」

花城の返答に相良はほっと胸を撫で下ろす。
そして、話を止められて不機嫌そうな顔をする花城に気付き、慌てて謝罪する。

「ただ、無事と言っても危険な状態にあることは間違いないわ。おそらく『悪意』達は彼女に夢を見せている」

「夢?」

「そう、夢。やつらは人間の精神を操作して夢を見せるの。そして、見せるのは悪夢ではないわ。幸せな夢よ。おそらく彼女は今、自分の望む世界で、幸せに生きているはずよ。……夢だけどね」

捉え所のない花城の話に、悪いとは思いつつもつい口を挟んでしまう。

「その、『悪意』でしたっけ? やつらは何のためにそんなことを?」

「喰うためよ」

相良は息を飲む。

「人間だって料理するとき素材に塩や胡椒をかけるでしょう? それと同じことよ。やつらにとって人間の幸福感は最高のスパイスなの。だからわざわざ時間をかけて、素材である人間に幸せな夢を見せる。そして、美味しくなった頃合いを見計らって生きたまま肉体を喰らうの。本当に美味しくなってるかは知らないけどね。食べたことないし」

なんとも悍ましい話を聞かされた相良はしばし硬直していたが、はっとしたように花城に詰め寄る。

「だったら早く川谷を助けないと!」

「そうね」

「そうねって……分かってるなら、なぜすぐ助けないんですか! ひとりで無理なら警察の力を借りて!」

正直、相良は苛立っていた。
全てを知っていて川谷を助けようとしない目の前の美女に対して。
しかし、花城は困ったように肩をすくめる。

「気持ちは分かるけど、私にとってあの女性は赤の他人なの。命を賭けてまで助ける義理はないわ。それに警察に何とかできるような相手だと思う? 犠牲者が増えるだけよ」

そう言われて、狂ったように笑う警官の姿が相良の頭をよぎる。
確かに花城の話は正しかった。
警察に頼って解決できるとは思えない。
そもそも人間の力でどうにかできるのかも疑わしかった。
相良は絶望的な思いに囚われ目の前が真っ暗になる。

「川谷……」

部下であり想いを寄せる女性の名が相良の口からぽつりと漏れた。
花城はそんな彼の様子を表情を変えずにじっと眺めていたが、やがてゆっくりと口を開いた。

「そんなに彼女を助けたい?」

花城の言葉に相良は当たり前だと言わんばかりに力強く頷く。

「そう。じゃあ、我が探偵事務所の仕事として貴方の依頼を受けましょう。報酬は……そうね、70万でどうかしら?」

「なんとかできるんですか?」

「もちろん。私はその道のプロよ。そして仕事となれば今回の件はもはや他人事ではないわ」

そう言って花城は片目をつむって見せる。
そんなどこか楽しげな花城を横目に見ながら、相良は思考する。

(払えない額じゃない。そもそも相場なんて分からないし。それで川谷が助かるなら)

「お願いします」

「契約成立ね」

花城は笑顔を向けるとすらりとした美しい手を相良に差し出してきた。
相良は若干ためいながらもその手を握る。
ひんやりとした冷たさが伝わってきた。

「でもこれだけは覚えておいて」

手を繋いだままの状態で花城が声をかける。

「彼女を助けることが必ずしもいい結末になるとは限らない」

先ほどまでの笑みは消え失せ冷酷ささえ感じる表情でそう言い放つ彼女を見て、相良はごくりと喉を鳴す。

「でも、このままだと川谷が死んでしまいますよね? それよりも悪い結末があるとは思えませんが」

臆せずそう伝えた相良の瞳を花城はじっと見つめる。

「……そう。分かったわ」

花城はほんの一瞬だけ切なげな顔を見せたが、すぐに元の表情に戻る。

「まあ、彼女のことは任せておいて。必ず助け出すわ」

そう言うと分かりやすく胸を張る仕草を見せた。

「さて、そうと決まれば善は急げね。事務所に戻って準備しないと。えーっと……」

花城の何かを促すような仕草をみて、相良はまだ名乗っていなかったことに気付く。

「相良です。相良湊(さがらみなと)」

「それでは相良さん、手続きがあるので一緒に事務所に来てくれるかしら。細かい話はそこでしましょう」

話し終えるやスタスタと歩き出した花城の背中を相良は慌てて追いかける。

「あの、ところでいつ助けに行くんですか」

相良の問いかけに、花城はふわりと振り返った。
長く黒髪が陽の光を浴びて輝きながら宙を舞う。
その美しさに思わず見惚れてしまった相良に彼女は明るい笑みを向けると、凛とした声で告げた。

「今夜よ」

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