4.帰郷

川谷は病室のベッドの上から惚けたように外を眺めていた。
少しだけ開いた窓からは心地良い風が吹き抜けてくる。
雲ひとつない快晴で、公園の芝生で遊ぶ子供たちや、のんびりとくつろぐ大人たちの姿が見てとれた。
心安らぐ昼下がりの光景であるが、それを眺める川谷の表情は暗い。

(みんな、どうしてるかな……)

こちらの世界に戻ってからすでに1週間が過ぎている。
あちらの世界の仲間たちは自分がいなくなったことをさぞかし心配しているだろう。
そう考えると早く帰らなければという焦りが募る。

彼女は数年の間、旅をしていた。
「神の楽園」の世界を。
親の暴力、女性職員からのいじめ、終わらない仕事、そのような辛い現実から唯一彼女が逃げこむことができる世界だった。
その世界に、彼女は特別な力を持って転生し、様々な仲間たちと出会い、助け合いながら困難を乗り越えていった。
そして、長年、憧れの存在であった劉璋に出会った。

「劉璋様」

川谷はぽつりと呟く。
劉璋は小説通りの、彼女の理想通りの男だった。
強く、優しく、そして真っ直ぐな心の持ち主。
最悪な出会い方をしたが、共に旅をするうちに心を通わせ、遂には結ばれた。
彼女は幸せの絶頂にいた。
劉璋は荒れ果てた神の国を統一すべく力を尽くし、川谷と仲間たちも全力で力を貸した。
そして、あと一息で目的が達せられるという時、突然、劉璋が消えた。
それと時を同じくして、世界が靄がかかったようにぼんやりとしたものに変化し始めた。
現実が夢に変わろうとしているような不思議な感覚だった。
川谷は劉璋を探しながら、世界の形を留めようとに必死に抗った。
しかし、苦労の甲斐なく彼女はこの世界に引き戻されてしまった。
戻った時、目の前には見知った男が心配そうに立っていた。
初めは彼の名前すら思い出せなかったが、説明を受けてなんとか川谷は記憶を呼び覚ますことができた。
そして、訴えた。

ーーー元の世界に帰して。

そこからの川谷の記憶は曖昧だ。
半狂乱気味に相良を責めたことは覚えている。
なぜこんな余計なことをしたのだと。
今思えば彼を責めるのはお門違いだったと反省している。
彼は何も知らないのだから。

川谷はこちらに来て以来、あちらの世界に帰る方法をずっと考えていた。
前回は自宅のベッドで浅い眠りに着いた時だった。
薄ぼんやりとした闇の中から声が聞こえてきた。

「こんな辛い世界は抜け出して、新しい……幸せな世界に行かないか?」

確かに現実は辛いことばかりだったし、どうせ他愛もない夢だろうと思ったこともあって、二つ返事で了承したのを覚えている。
その後、真っ暗なトンネルの中を進むような不思議な感覚を味わった後、突然意識が鮮明になり「神の楽園」の世界に降り立ったのだ。
初めは夢の続きかと思ったが、彼女の五感がそうでは無いことを告げていた。
間違えなく自分は転生したのだ。

(どうすればもう一度あの声を聞けるの?)

あの声の主が神なのか悪魔なのかは分からない。
しかし、川谷に自分がいるべき世界を示してくれたのは確かだった。
眠りに落ちる度に件の声が聞こえてくることを期待しているが、1週間経ってもその兆しすらない。

川谷は窓から目を離し、自分の手を見る。
醜く痩せ細り張りもない。死者のそれのようだ。
転生した自分はもっと生命力に満ち溢れ、輝いていた。
魂は同じでもこの体はとても自分のものとは思えない……。
ここまで考えて、川谷ははっとして顔を上げる。

「そっか」

さも良いことを思いついたように、川谷は満面の笑みを浮かべる。
そして、ベッドから降りると、窓に手をかけ大きく開いた。
一陣の風が、彼女の髪を大きくなびかせる。

「劉璋様、みんな、すぐそっちに向かうね」

川谷はそれだけ言うと、6階の病室から一瞬の躊躇もなく外に向かってその身を投げ出した。
踊るように宙を舞う彼女の目に、「神の楽園」の雄大な山々が飛び込んできた。
眼下には共に過ごした仲間たちがいる立派な宮殿を一望できる。

(ああ……帰れるんだ)

彼女はこの世界で最後の幸せを噛みしめていた。

コメント